片山伯耆流


片山伯耆流柔術

柔術とは

現代武道との違い

 柔術と言えば、現代においてはグレイシー柔術のような格闘技をイメージするのではないだろうか。また、柔道と混同する人も多いようだ。結論から言うと、ここでいう「柔術」は格闘技に分類すべきものではない。剣術、槍術、弓術等と同じく「武術」である。柔道との違いは?と言うと本来は同じものと言えるかもしれない。
 柔道は元々柔術諸派の技を選んだものである。そして、非論理的な思想を取り除き安全かつ体系的に技を習得できるようにしたものである。このあたりから、武術という性格が薄れてきているように思われる。また、試合を行い、勝敗が付けられるようになるにつれてスポーツ色が濃くなっていく。

柔術の特徴

 柔術は体術とも言われるように徒手空拳で相手に勝つための技法である。その技は「打」「蹴」「投」「極」からなり、人体の急所を攻め関節を極めながら無理なく進行するように合理的に組み合わされている。そして、「打」「蹴」を主体としたものと「投」「極」を主体としたものに分かれ、前者を「拳法」「白打」、後者を狭義の意味での「柔術」と称している。
 空手等の「打」「蹴」を中心としたものと比較して、柔術ではこのような当身は次に続く「投」「極」へのきっかけにすることが多い。これは柔術が必要とされた戦国時代の組討に理由があるとされる。
 当時の戦闘のスタイルは甲冑で身を固めた武士を倒すために柔術が存在したのであり、甲冑の上からの当身が有効なはずもない。基本は弓による遠距離からの攻撃、接近してからは槍での戦いさらに近接して刀による打ち合いである。柔術が要求されるのはそういった武器が尽き、なおかつ相手を倒さねばならない状況になったときだ。
 そのための当身とはすなわち、一時的に相手の動きを止めるためのものだ。そして相手を投げ、あるいは極めて動きを封じ、脇差で甲冑の隙間を狙うのだ。技によっては「打」「蹴」で決めるものもあるが、「蹴」によるものは鎧のない部分を狙ったものであるし、「打」はおそらく短刀で刺すということだと思われる。  

片山伯耆流柔術

 片山伯耆流柔術は片山流のうち、「腰廻」を中心としたものだ。その源流は竹内流にある。久安は竹内流を習得し、そこに工夫改良を加え竹内本流とは異なる独自の「伯耆流腰廻」を編み出した。この腰廻が竹内流の一派でないことは「日本柔術の源流・竹内流」の中の「竹内流から発展した流派」の項目に「伯耆流腰廻」が記載されていることからも分かる。
 片山伯耆流が当時の武術諸派と異なるのは久安の武士道に対する思想が大きく影響しているためだ。その思想は「戈止之筋」すなわち戈(戦)が止むこと、磨きぬかれた武威をもって敵を圧倒し、その戈を動かすことを制して敵も味方も殺傷することなく、ただ、その争うところを除く、すなわち神武不殺を武の理想とするものだ。
 この思想は腰廻の技の中にも見られ、先の先を取る攻撃的な技はほとんど見受けられない。また、他人への攻撃を制するものがあるが、これは主君を守るためのものであろう。この思想は当時の時勢がゆるすはずもなく、その目的達成のたけに「専伐之筋」としての実践的な「技」を指導したのだ。

現在の片山伯耆流柔術について

 現在行われている片山伯耆流柔術は当初から続いているものではない。片山流を完全に承継していたのは九代片山武助のときまでという。その後、居合については熊本の星野家に伝わるが腰廻は伝えられていない。では、なぜここに片山伯耆流柔術があるのか。
 それは、片山家に多くの伝書が残されていたからだ。これは、腰廻だけでなく剣術についてもかなりの文書が残されている。詳しくはもし機会があれば「伯耆流柔術秘伝絵巻(中島篤巳 著)を見るとよいのだが、技の解説が絵をつけてされている。つまり、武術に詳しい人がその解説を見ればおおよそ技の全体像が分かるというものだ。
 そして、本書の著者、中島篤巳氏がそれらの文書を元に再現したものが、今ある片山伯耆流柔術だ。再興当初は居合に倣い流名を「伯耆流柔術」としていたが、現在は「片山伯耆流柔術」としている。



[ホーム]