片山伯耆流


片山伯耆流の歴史

流祖 片山伯耆守久安

 片山伯耆流を開いたのは片山伯耆守久安である。久安は天正三年(1575)に生まれ、幼少のころ叔父の松庵から居合十八刀を学んだと言われる。その後、武道の真髄を極めようと諸国を廻ったが、良師を得ることができず京に戻ることになる。そして慶長元年正月、京都の愛宕社に参籠し、心の中に「貫」の字が現れ悟りを開いたと言われる。
 そして、豊臣家の指南役として秀次、秀頼に仕え、慶長十五年(1610)には後陽成天皇の天覧に居合の技「磯之波」を供し、従五位下伯耆守に叙せられた。
 元和元年(1615)に大阪夏の陣で豊臣家が滅亡すると、久安は周防の国、岩国に下った。久安四十一歳のときである。岩国藩藩主吉川広家は久安に対し客分の礼をもって迎え玖珂郡祖生村に住し、広家の子広正の師となった。
 久安は何度か芸州(現在の広島)に赴いているが、晩年は岩国に留まり、慶安三年(1650)に七十六年間の生涯を閉じた。

流派について

 片山伯耆流の流名についてはいくつかあり、片山伯耆流、伯耆流、抜刀伯耆流などと呼ばれていたようだが、宗家では片山流と称している。また、一貫流、貫流、直流、神流とも称したようである。
 別に名和伯耆守長年を流祖とする伯耆流 があるが、これは片山伯耆流とは無関係である。ちなみに、現在では居合のみを指して伯耆流と呼んでいる。



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